おニュー!芸能トピックス

最新の芸能界やスポーツ情報を取り上げていきます。

    カテゴリ:芸能 > コメディアン


    志村 けん(しむら けん、1950年(昭和25年)2月20日 - 2020年(令和2年)3月29日)は、日本のコメディアン、お笑いタレント、司会者。東村山市名誉市民。 ザ・ドリフターズのメンバーとして活躍する傍ら、亡くなるまで自らが持つ番組でコントを披露し続け、芸能界に大きな功績を残した日本を代表するコメディアンである。


    (出典 www.news-postseven.com)


    志村けんさん 一周忌 実兄・知之さんが語る1年「遺品整理で唖然」

    1 爆笑ゴリラ ★ :2021/03/26(金) 08:27:03.64 ID:CAP_USER9.net

    3/26(金) 7:05
    NEWSポストセブン

     志村けんさん一周忌 実兄・知之さんが語る1年「遺品整理で唖然」
    志村けんさんの兄・知之さんが語る1年(時事通信フォト)
    「弟にむけた曲があるっていうのは、テレビで見て知っていたんだけど、いざ曲を聴いたら、もう、泣けて仕方がなくてね……」

     こう語るのは、志村けんさん(享年70)の兄・知之さん(74才)だ。彼が聴きながら目に涙を浮かべていたのは、吉幾三(68才)が1月下旬にリリースした『二人のブルース』。知之さんもまた志村さん同様、吉のファンだというが、リリースされてすぐには聴くことができなかったという。

     「吉さんの歌声は、独特の深みや味わいがあって、胸を打つんだよね。弟がちびちびとお酒を飲んでいる姿を思い出して、とにかく涙が止まりませんでした」(知之さん・以下同)

     最愛の弟である志村さんを失ってから1年。ようやく落ち着きを取り戻しつつあるという知之さんが、この1年を振り返る。

     知之さんが志村さんと最後に会ったのは、亡くなる1か月ほど前の2020年2月25日。麻布十番の寿司店で開かれた志村さんの古希を祝う会だった。

     「息子(志村さんの甥)が選んだ紫色のちゃんちゃんこを着て、終始楽しそうだった。“今年はドラマと映画でも頑張らないと”と話していたんだよね」

     ドラマとは、NHK連続テレビ小説『エール』、映画とは初主演の予定だった山田洋次監督作『キネマの神様』のことだ。来年の誕生日もみんなでお祝いをできるとばかり思っていたが、その願いは叶わなかった──。

     通夜と葬儀は2020年4月11日と12日に親族のみでとり行われ、四十九日法要もひっそりと済ませた。コロナ禍という状況を鑑み、関係者やファンが参列できるお別れ会はまだ開催されていない。

     その影響もあるのだろう。「志村さんに感謝を伝えたい」と、東京・東村山市内にある志村家のお墓を訪れるファンが後を絶たないという。墓を掃除して花を手向けたり、手紙を置いていくファンも多く、その数は段ボール3箱分以上にもなっている。ファンの心残りは、いまだ開催されていない「お別れの会」だ。

     「お別れの会については、まだ何も決まっていないんです。いまのところは、オンラインでの会も予定していません。一周忌の法要も親族のみで行う予定です」

     三鷹市内にある志村さんの自宅も、まだ整理が進んでいないそうだ。

     「弟が亡くなった後、家には何度か行っているんですが、とにかく物がありすぎて、どこから手を つければよいのかわからない状態なんです。レコードやDVD、洋服が途方もない量があって、唖然としました。遺産についても、まだ何も着手できていないんですよ」

     月日が経っても喪失感が薄らぐことはないが、そんな日々の中でも、知之さんの希望になっているものがある。東村山駅前に設置される予定の志村さんの銅像だ。設置のためのクラウドファンディングでは、6600人以上が支援し、約2700万円もの資金が集まった。銅像のポーズは、バカ殿様の“アイ~ン”に決まったという。

     「6月末には銅像が出来上がり、7月には設置されると聞いています。私も完成が楽しみですし、ファンのかたにも喜んでいただけるといいなと思っています」

     志村さんが日本中にもたらしてくれた笑いは、銅像とともに、ファンの心の中で永遠に生き続ける 
     
     
    https://news.yahoo.co.jp/articles/ab6ce78e14584d4c14a25dc8b0a1f7f18cd4cf47


    【【芸能】志村けんさん 一周忌で実兄・知之さんが語る「遺品整理で唖然」 】の続きを読む


    コント55号 > 萩本欽一 萩本 欽一(はぎもと きんいち、1941年(昭和16年)5月7日 - )は、日本のコメディアン。 日本野球連盟に所属する野球クラブチーム・茨城ゴールデンゴールズの創立者であり、初代監督を務めた。司会者などタレント業のほか、舞台などの演出家としても活動する。



    (出典 contents.oricon.co.jp)


    "視聴率100%男" 萩本欽一 妻に先立たれた別れの作法「僕は妻に線香をあげない」

    1 爆笑ゴリラ ★ :2021/02/07(日) 12:41:20.83 ID:CAP_USER9.net BE:581595472-2BP(0)


    (出典 img.5ch.net)

    2/7(日) 7:05
    NEWSポストセブン

     妻に先立たれた萩本欽一の別れの作法「僕は妻に線香をあげない」
    萩本欽一が妻のお葬式で手を合わせず、お線香も上げない真意とは
     
     かつて3つの冠番組の視聴率を足すと100%を超えたことから、「視聴率100%男」と呼ばれ、コメディアンとして芸能界の頂点に上りつめた萩本欽一(79)。しかし、半世紀にわたって連れ添い、彼を支え続けた妻の存在は知られていない。その最愛のパートナー・澄子さんが、半年前にがんで亡くなった。欽ちゃんは、妻の病、そして死にどう向き合ったのか──コラムニストの石原壮一郎氏が聞いた。

     * * *

     ここ何年かは、スミちゃん(澄子さん)は骨折で何回か入院してたんだけど。お見舞いに行こうとすると「すぐ退院するから、来なくていい」って言うんだよね。

    「もう東名に乗っちゃったよ。お見舞いの品を置いたら帰るよ」って言って強引に向かった。そしたら、近所に住んでて最後まで面倒を見てくれた義妹に、「すぐ来い」って連絡したみたい。なんだろうと思って駆けつけたら、「眉を描いてほしい」だって。入院するときは、まずお化粧道具を準備してたらしい。

     昔から、ぼくが家に帰ったときには、いつもお化粧してて、オシャレなんだなと思ってた。亡くなってから義妹が「義兄さんに会うために決まってるじゃない」って。ぼくの前ではお酒は一滴も飲まなかったけど、実際は好きだった。ぜんぜん知らなかったな。

     家にみんなが集まったときに、息子が「お父さんのどこが好きだったの?」って聞いたら、

    「うーん、『好き』って思ったことはないわね」

     なんて言うから、ぼくが「じゃあ、なんで結婚してくれたんだよ」って問い詰めた。そしたら、ちょっと考えて、

    「ファンだったのよ。今もずっとファンなの」

     そう言ってくれた。あれは嬉しかったな。
    「ありがとうね」

     スミちゃんから初めて「ありがとう」って言葉を聞いたのも、4年前にがんがわかってからだった。

     ある日、ぼくが見舞いに行ったら、帰り際に「ありがとうね」って言ってくれた。ぼくは思わず大きな声で、

    「スミちゃんから『ありがとう』って言ってもらっちゃった! 今日はとっても嬉しい日だなあ。バンザーイ!」

     そう言って、本当に両手をあげてバンザイしたんだよね。

     人間って、死を意識すると、素直になれるのかもしれない。「一生懸命」って言葉があるじゃない。命を懸けて一生を振り返って、初めて「ありがとう」って言葉が出てきたのかな。そう考えると、なおさら嬉しいな。

     本当に「ありがとう」を言わなきゃいけないのは、ぼくのほうだよね。でも、あらたまって言ったら、「私、もう長くないのかしら」なんて思わせちゃう。だから、なかなか言えなかった。 
     
     
     https://news.yahoo.co.jp/articles/ba355dac12e5ee75223a004464fe566f7f6cfce1


    【【芸能】萩本欽一 妻に先立たれた別れの作法「僕は妻に線香をあげない」 】の続きを読む

    このページのトップヘ