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    カテゴリ:芸能 > ギタリスト

    村治 佳織(むらじ かおり、1978年4月14日 - )は、日本ギタリスト東京都台東区出身。

    同じくギタリストの村治奏一は実弟。3歳から父・村治昇にギターの日々厳しい特訓の手ほどきを受け、その後10歳からは福田進一に師事した。1989年の日本ジュニア・ギター教育協会主催「日本ジュニア・ギター・コンクール」にて最優秀賞を、1991年の学生ギター・コンクールにおいて、全部門通じての最優秀賞を受賞。さらに1992年には、ブローウェル国際ギター・コンクール(東京)と東京国際ギター・コンクールで優勝している。

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    村治佳織 “女子高生ギタリスト”の肩書に違和感があったころ

     デビュー直後、ギタリストの村治佳織さんは「将来の夢は?」と質問されて、「おばあちゃんになっても弾いていたいです」と答えたことがある。

    「プロフィルには、『3歳でギターを始めた』とありますが、私自身はギターとの出会いや始まりを意識していないんです。気がついたら弾いていた。それは、気づいたら自分の親が今の親だったという、そんな感覚でした(笑)」

     もうその時点で、村治さんにとってギターは、かけがえのない相棒だった。人前でギターを演奏することは楽しい。レコーディングもワクワクする。レッスンも好き。でも、メディアに出るときに必ずついてまわる「女子高生ギタリスト」という肩書だけは、素直に受け入れられなかった。

    「演奏しているときは、一人のギタリストとして頑張っているのに、そこにわざわざ“女子”とつくことにも違和感があったし、“高校生”とつくのも、若いから物珍しがられているようでイヤでした。学校に行くときは高校生ですけど、『演奏している限り、それは関係ないでしょ?』と。でも、当時は、『卒業したらそんな肩書は外れるんだから』と我慢しました」

     今から30年近く前、公の場で、ジェンダー論など交わされていなかった時代のことだ。興味本位でつけられた肩書に抵抗する術を、まだ彼女は持たなかった。

    「そんな経験も関係したのか、私自身は、女性らしく振る舞うことに恥ずかしさがありました。コンサートのとき以外はお化粧もしなかったし、20代の中頃までは、演奏するときの衣装もパンツスタイルが多かったです。音楽を第一に感じていただく上で、女性性が邪魔をするなら、無性でありたいと思った」

     それが、23歳で3カ月間スペインに滞在してから、意識が変わった。

    「スペインで、艶かしくない健康的な女性らしさに出会って、『私も、これならいけるかな?』と。そこから髪を伸ばしたり、アクセサリーをゴールドに変えてみたり。あとは、思い切ってヘソ出しルックにも挑戦しました(笑)。以来、音色が明るくなったと言われますね」

     話は少し前後するが、3歳にしてすでに人生の相棒と出会った村治さんが、「ギターをやめるという選択肢もあるんだな」と気づいたのは、20歳のときだった。ギターが好きな気持ちに変わりはなく、「やめたい」と思ったわけでもないが、今のままギターと二人三脚の人生を続けていくためには、「続ける」という意思も必要なことに、はじめて気づいた。

    「『女子高生』の肩書が取れて、ラクになったと思ったら、今度は、受け身なだけでは自分が成長していけないとわかったんです。それで、ようやく自分の将来についてちゃんと考えて、私の強みは、始まりもないぐらい自然にギターを始められたことなんだから、自然と長く続けていくことを目標にしよう、と」

     以来、“バランス”という言葉を大事にするようになった。能動と受動のバランス。仕事とプライベートのバランス。伝統と革新のバランス。いずれも、どちらかに偏りすぎないように。

     20代半ばで、英デッカ・レコードと日本人初のインターナショナル長期専属契約を結び、アジア、ヨーロッパ、アメリカなどで、コンサートやテレビ番組で演奏する機会を得た。ところが、30代半ばで舌腫瘍を患い、2年間の休養を余儀なくされた。

    「そのときは、『これが挫折か』と思いました。本当に落ち込みましたし、つらかったですが、逆に、あのときが人生でいちばん、人の優しさに触れた時間だったように思います。(吉永)小百合さんは、プライベートで水泳に誘ってくださいましたし、ご主人の岡田(太郎)さんからは、『なりゆき』という言葉をいただいて。『バランス』を大事に生きてきた私が、『“なりゆき”でいいんだ』と、肩の力を抜くことができました」

     人と人との関係を深めるのは、仕事を介することがほとんどだったのが、病気になってはじめて人間と人間、真心と真心の触れ合いを感じた。

    「先が見えないお休みの期間は苦しかったですが、その分、深い経験をさせていただいた。今にして思えば、学ぶことがたくさんあったなと思います。自分では、どうにもできない障害や災難に直面したときは、一旦状況を受け入れる。そのほうがうまくいくタイプなのかなとか、いろんなことを」


    村治佳織 “女子高生ギタリスト”の肩書に違和感があったころ (msn.com)

    高中正義 50周年ライブで魅せた“二刀流”テク 武道館で伝えた半世紀分の感謝

    40年前のライブ「虹伝説」を再現した高中正義=東京・日本武道館高中 正義(たかなか まさよし、出生名:劉 正義(りゅう まさよし)、1953年3月27日 - )は、東京都品川区大井出身のギタリストミュージシャン音楽プロデューサー作曲家である。

     日本を代表するギタリスト・高中正義(68)が20日、東京・日本武道館でデビュー50周年記念ライブ「虹伝説ファイナル」を行った。ロック史上に刻まれる名盤「虹伝説」をリリースした1981年に武道館で開催した公演を完全再現。当時と同様、7色に輝くアーチ型のセットの下で、円熟の音色を気持ち良さげに響かせた。

     「虹伝説」は元々、イタリア人作家の絵本で、虹を食べる7匹の小鬼ゴブリンを描いたファンタジー。高中がグアム島の友人宅を訪れた際、日本未発売だった同作に出会い、絵に合わせた曲を制作してコンセプトアルバムとして完成させた。絵本の日本語版も出版され、メディアミックスの先駆けとなった。

     40年ぶりによみがえったステージに、高中は黄色のツナギで登場。パーカッションの斉藤ノヴ(71)らバンドメンバーも、レインボーカラー1色ずつの色違いコーデで決めた。

     元プロレスラー・天龍源一郎(71)の入場テーマ曲でもあった「THUNDER STORM」などを、かつての曲順通りに演奏。1曲で2本のギターを弾き分ける“二刀流テク”でも、最大収容50%のファン6000人を魅了し、「おかげさまで50周年。こんなに長くできてるのは、皆さまが見に来てくれるおかげ」と、半世紀分の感謝を伝えていた。


    高中正義 50周年ライブで魅せた“二刀流”テク 武道館で伝えた半世紀分の感謝 (msn.com)

    ギタリストの寺内タケシさん死去 エレキギターブームの立役者
    © 早坂洋祐

    寺内 タケシ(てらうち タケシ、本名:寺内武、1939年1月17日 - )は、日本のギタリスト、作曲家。茨城県土浦市出身、関東学院大学工学部電気工学科卒。通称「エレキの神様」。また、「テリー」の愛称でも親しまれている。座右の銘は「ギターは弾かなきゃ音が出ない」。 1962年に「寺内タケシとブルージーンズ」を結成、現在までに1500校を超える高校を回りハイスクールコンサートを開いている。ロシア、アメリカ、ブラジル、台湾など世界でも公演を続けている。


     「エレキの神様」として親しまれたギタリストの寺内タケシ(てらうち・たけし、本名・寺内武=てらうち・たけし)さんが18日、器質性肺炎のため死去した。82歳だった。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は長男、章(あきら)氏。後日、お別れ会を予定する。

     昭和14年、茨城県土浦市生まれ。5歳でギターを始め、中学時代にバンド活動をスタートし、関東学院大在学中にプロの道へ。38年に「寺内タケシとブルージーンズ」を結成し、エレキギターブームを巻き起こして〝エレキの神様〟の異名をとった。「レッツ・ゴー『運命』」や「津軽じょんがる節」などヒット曲多数。

     「エレキギターは不良生徒をつくる」という偏見をなくすために、49年から全国の学校で演奏する「スクールコンサート」を始め、その長年の功績に対して平成12年に文部大臣(当時)から感謝状を授与された。

     16年には、青少年の情操教育の貢献などが認められて文化庁長官表彰。17年には衆議院第一別館でハイスクールコンサート国会報告会も開いた。

     昭和42年に「レッツ・ゴー『運命』」で日本レコード大賞編曲賞、53年に「寺内タケシ日本民謡大百科」で同賞企画賞を受賞

    ギタリストの寺内タケシさん死去 エレキギターブームの立役者 (msn.com)



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